ヘミシンクをする上での様々な目的のうち、やはり誰でも持つのが、「体験を得たい」ということがあります。
その次が、得たメッセージなどについて、「意味を理解できるようになりたい。きちんと解釈できるようになりたい」というものです。
実はこの部分に対するトレーニングを行なっていくうえで、とても重要なことがあるのです。
それは、霊能力と霊性の関係についてです。
ロバート・モンローは、このことについて「体外へ旅」(ハート出版)の中でいかにも彼らしい言い方で、次のよう に述べています。
「(非物質世界を体験するという)この奇跡的な妙技を成し遂げるために、人は厳しい修行をするか、または『霊性が成長』しなければならない、というのが神秘主義者の見解である。
こういった教えはおそらく成長して機が熟した人を啓発するために、代々秘密裡に伝えられてきたのだろう。
しかも、私のメモに収められたデータは、このテーマの神秘主義的アプローチを裏付けている場合が多かった。
これはかなりショックだった。
けれども自由に解釈して現代の言葉に置き換えたら、多くのことがつじつまが合った。
そしてまた、言葉にされず残ったことも多かった。なぜかは分からない」
私もトレーニングを続ける中、「霊性と霊能力のバランス」ということが、「メッセージに対する解釈を行う」という部分において、とても重要であることを痛感ました。
ヘミシンクは、トレーニングにより、またはタイミングが合いさえすれば、体験を得ること自体はさほど難しいことではありません。
それは、非物質界にアクセスするという「霊能力」の部分が開発されていくからだと思います。
しかし、そこで得た体験やメッセージを、きちんと理解・解釈したり、自分の成長に役立てていくには、自分の中の「霊性」を向上させるための「心のトレーニング」も同時に行う必要があると思います。
「霊性」とは、霊の字の「清らかな神の力や魂」という意味(「漢字源」より)から、清らかな神的魂の性質、つまり、神様のような魂の清らかさ、といえるものです。
これは、愛の宇宙意識と同じエネルギーを持つもので、 私が「愛と感謝と奉仕」と言っているものです。
昔からの手順に習えば、厳しい修行の果てに得られる霊能力的体験が、ヘミシンクでは厳しい修行をしなくても得ることが可能です。
しかしその厳しい修行には、「霊性」の向上という大切な意味が含まれているのではないでしょうか。
モンロー研究所では、こんな話を聞くことができます。
ある高僧が、弟子をつれてヘミシンクを体験しにモンロー研究所を訪れたそうです。
はじめのレクチャーのあたりでは、ヘミシンクに対する懐疑的な姿勢を匂わせていましたが、実際にヘミシンクを体験した後、明らかに動揺し、自分たちが何十年も修行を重ねてようやく到達する境地に、ものの数十分で到達してしまうなんて! と驚愕したそうです。
しかし、ここで言う「境地」とは、意識状態のことを指しています。そこから得られた情報をきちんと解釈するということまでは含まれていません。
僧たちが行ってきたという「境地の意識状態」を得るための修行のなかには、「霊性」を向上させ、その土台のもとメッセージを受け取るという目的もあるのではないでしょうか。
むしろ「能力」よりも「霊性」の向上のほうに重きが置かれているように思います。
ですから「霊性」と「霊能力」とのバランスを常に心がけながら、愛の宇宙意識のもと、その両方の向上を意図し、トレーニングを行なっていくことが大事なのではないかと感じます。
日常の様々な現実問題には、すべて意味があると捉えて、愛と感謝と奉仕のエネルギーで向き合い、考え、葛藤し、受け入れ、行動していくことが、「霊性」向上に有効なトレーニングとなるのです。
ヘミシンクは、自分が向き合う対象(問題や課題)の本質を明確にしてくれる、有効なツールです。
しかし、問題や課題を明らかにし、それと向き合うのは、少々勇気の要ることですし、「自分は神様や修行僧にはなれない」と思うかもしれません。
でも、なれなくても、いいのです。重要なのは、チャレンジをすることです。先ほど言った「エネルギー変換」を行なおうと試みることなのです。
基本的にすべてのエネルギーには善悪はないと思っています。あえて言うならすべて良いのです。
なぜならすべては自分のとらえ方次第だからです。
愛の宇宙意識のエネルギーを持って臨めば、出来事そのものは変わらなくても、自分にとっては「良いこと」へ変換できます。
出来事自体は変わらなくても、それに対する自分の中の何かが変わるかもしれません。
つまり、すべては体験であり、その体験したことをどう生かすかということが大切なポイントなのです。
ユニトレは、そうした「霊能力」と「霊性」を、同時に向上させていくための「心のトレーニング法」なのです。